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ベイカー街の亡霊のマニアック感想 揺るぎない史上最高傑作コナン映画


tomsoya.hatenablog.com

いまや国民的アニメとなった名探偵コナン
私も例に漏れず、コナンが大好きです。

いや、もっと言えばマニアです。。。

どれくらい好きかはまた別の機会にまとめるとして、今回は名探偵コナン映画の第6作「ベイカー街の亡霊」がどれくらい素晴らしい作品なのか伝えたいと思います。

 

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イカー街の亡霊とは

世界初公開の体験型ゲーム「コクーン」に、コナンたち少年探偵団が参加する。ゲームが始まる直前、現実世界ではゲームの開発責任者が殺害される事件が発生。現場に残されたダイイングメッセージから、コナンはゲームのなかに事件を解く鍵があると考えゲームに参加し、現実世界ではコナンの父優作が事件の捜査を開始する。

コナンが参加したのは、19世紀末のロンドンを舞台に、史実では未解決に終わった切り裂きジャックの正体をつかむ「オールドタイム・ロンドン」。50人の参加者のうち全員がゲームオーバーになると50名全員の命を奪うというノアズアーク

子どもたちの命をかけて、コナンはノアズアークに挑む…という感じのストーリーです。


劇場公開は2002年4月。私自身、記憶にあるうちでは今までで一番最初に映画館で見た映画です。そしてこの映画を映画館で見たことをとても誇りに思っています
結論から言うと、この映画はコナン史上で最高の作品であることは言うまでもありませんが

日本アニメ映画史上にこれからもずっと残る最高の作品
だと思っています。
うーん匹敵するのはクレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲くらいでしょう。これからシーンを全て解説し、この映画がどんなに素晴らしい映画か語りたいと思います。

イカー街の素晴らしさは

①コナン映画として観て超おもしろい
②それでいて普遍的なメッセージがきちんと伝わる
③演出と脚本が素晴らしい


だと思っています


*以下ネタバレが含まれます。



アバンタイトル

この映画のアバンタイトルは、この映画でコナンたちが体験するVR型ゲーム「コクーン」に組み込まれた人工知能「ノアズ・アーク」を開発したヒロキくん(10歳)が、ノアズ・アークをネット空間に放ち、その後高層ビルから自ら身を投げるシーンから始まります。

コナン映画っぽいアバンタイトルでありながら、いきなり少年が死ぬのですから、一味ちがう緊張感です。

それまでのコナン映画のアバンタイトルといえば、例えば第5作「天国へのカウントダウン」(天カウ)では、灰原が組織へ寝返ったか?というような緊張感ある内容。

「瞳の中の暗殺者」では(これまた最高の作品で、瞳の中の暗殺者も天カウも日本アニメ映画史に残る大傑作だと思う)、ラストシーンの精神浄化を最高潮に持ってくる伏線になる重要なシーンを流したりと、いや〜この初期コナン劇場版ののアバンタイトルは格が違いますねもう。5億点!

コナン映画の前提をてきぱきと語る演出と脚本

本編では、コクーンの日本体験会シーンから始まりますが、ここで実に手際よくいろいろなことを説明します。でもそれが一切説明的ではないというところが、いやーこだま監督は名人芸としても脚本の野沢さんもすごいわ。

例えば、探偵団における灰原のポジションが、コナンをよく知らない人にも伝わってきます。

「悪しき世襲制の問題点」から、この映画の超超重要テーマである「血」についての最初の示唆を灰原に言わせる。すごい。ちょっと大人びている雰囲気やコナンとのなんとなくの信頼関係を自然に描写するんです。

灰原とコナン掛け合いで、二人の関係性をスマートに示します。前作の天カウの時期(2001年)は、灰原が将来的にコナンの味方か敵なのか分からない時期だったこともあって、灰原のイメージは今とは全く違っていました。

天カウでの灰原に対するカウンターみたいな要素もあったのかもしれませんが、ベイカーでは灰原が普段いわないような「ダメよ工藤くん、諦めちゃ。お助けキャラがいないなら、私たちにとってのホームズはあなた」などというセリフを言わせます。

ここ最近の灰原しかしらない人は分からないと思うけど、二元ミステリーくらいまでの灰原は必ずしもコナンと信頼があったわけではないんです。大人や権力側への不信感、探偵団との信頼、蘭姉ちゃんへの嫉妬、そうしたことの象徴としてコナンの立てた作戦を台無しにしてベルモットの前に自ら出てきたのですから。


例えば、少なくないファンが激怒というか呆れ返った純黒のナイトメアでの、元太の自分勝手描写のような、ここ最近の劇場版のに散見される探偵団のダラダラ絡みはないのもGOOD。


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↑この少年たちの描写に意味のないところは一切ない。彼らがサッカーボールで遊んでいること、その際に樫村氏に注意されること、遊んでいるときに会場のブロンズ像が握っている短剣を落としてしまうことも、すべてのちの伏線として鮮やかに機能する。

 

少年探偵団と、ゲームで協力することになる二世軍団の諸星少年や江守少年らとの対比をもまったく不自然になることなく描きます。

ゲームに招待されていない少年探偵団に対し、菊川少年や諸星少年らは、当初は少年探偵団とくらべて圧倒的に上の「権力側」の存在として描かれます。ゲームに入ってから、少年探偵団の協力とコナンの有能ぶりを際立たせるための措置です。

ちなみに、諸星少年をノアズ・アークが乗っ取る際に不自然でないよう、この段階で二世グループのリーダー的存在である印象を与え、初見時に諸星少年が目立つことに合理性を与えているんです。これも本当にすごい。すごすぎる。

この冒頭15分くらいで、ここまで工夫されてますからね。


二世グループとの対立と協力

さて、序盤で完全に必要な語りを終えているので、もうここからは野沢さんの得意分野です。もう詳細に触れてキャッキャキャッキャ言いたいんだけど、ゲームが始まってからは、まず少年探偵団と二世グループの連携の差を浮き彫りにします。冒頭シークエンスときれいに対比されています。

ゲームが始まる前に、ヒロキくんの父である樫村氏が殺されます。

このトリック自体には気がつかない人はたぶんいないと思うから、なんか事件自体が映画の盛り上げ目的化している感はたしかにあるのですが、現実世界の話をすすめることで息もつかせぬゲーム内の展開に休息をもたらすという点では良いかもしれません。

と同時にゲームが始まります。いきなりノアズ・アークへの圧倒的な無力感に包まれます。予定されたプログラムより難易度を高くし、子どもたちを人質にとる。またノアズ・アークに反発する二世の親たちから子どもたちを遮断し、彼らが身勝手で無能なことも印象付けます。

そして、思いやり(あるいは好意)で上着を貸し借りする少年探偵団と、なにもできない二世グループ。


橋から落ちそうになった菊川少年を救うコナンと、それを見て怯える二世グループ。


という具合に、少しずつ二世グループの印象が変わってくるようにできてるんです。



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↑コナン→歩美ちゃん、光彦→灰原、元太→蘭姉ちゃんというふうに上着を貸すが、一回見ただけでは、よくある少年探偵団のやり取りにしか見えない・・・。



そして極めつけはバーでの攻防。

できるだけ安全にゲームを進めたいコナンたちですが、諸星少年の暴走のせいで、歩美、光彦、元太がゲームから脱落し、勢力を大きく失うことになるのです。ここで二世グループとコナングループの立ち位置は完全に逆転します。

チームワーク抜群で目の前のことに頑張れる少年探偵団

いまいち真剣さや思いやりが足りない二世グループ


その対立が見事なまでにストーリーとリンクしながら進みます。いやあ、序盤もすごかったけどゲームが始まってからは息もつかせぬハラハラのつるべ打ちかよ。

そういえばこの冒頭の工夫に、例えば「言語の違いの無視」へのスマートな対策を施します。ナンセンスな文句だとは思うんですが、フランス舞台の映画なのになぜか英語で登場人物が話をするとか、そういえば007は二度死ぬでも何故か日本人全員が英語話すし…みたいな。

そういう指摘を想定してか、最初は英語でゲームが始まります。

英語だ…なんて言ってるかわかんない〜」(歩美ちゃん)

と言わせて、それを

ゲームの言語設定を日本語にしてください

 という優作のセリフで解消する。

いやーこういうところも上手いなあ(ため息)。

そのほかにも、ホームズの捜査資料を読むシーンでは

おれ英語読めるぞ!」(元太)
プレイヤーは英語が読めるようにプログラムされているのね」(灰原)

 など、映画では許されるご都合主義をきちんとケアしてますよ。

それから、ゲームの核心に近づくと、コナンの推理を少年探偵団が聞くことになります。通常のコナンの世界に影響を及ぼすことを懸念してか、蘭と灰原以外のメインキャラはこのバーでゲームから早々に除き、早い段階からゲストキャラだけにします。このあたりもうまいなあ。

劇場版はコミックのストーリーに影響させない」という心意気。最近のコナン映画監督はこれをどう受け止めるでしょうか?


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↑元太が早々と退場。「ここからはいつものコナンじゃない。大人の話だ」という高らかな宣言である。

ジャック・ザ・リッパーとの対決

ジャック・ザ・リッパーとの対決そのものは、ミステリー要素はそこまでないんです。むしろ解決するべき謎、すなわちジャック・ザ・リッパーの正体については、基本的に見ている側に思考を求めていませんし、問題とそのヒントも実は明確には与えられていないと思います。

ゲームにおけるジャック・ザ・リッパーの正体を探る描写の意味が、現実の世界でシンドラー社長がジャック・ザ・リッパーの末裔であることにつなげるためのシーンになっているのは、たしかに物足りないと感じるかもしれないし、ここは作り手が妥協したところかもしれません。

 
それに大企業の社長で地位も名誉もある人物が、いまさら19世紀末の殺人犯の末裔と分かっても、それって本人とはなにも関係ないことです(もっとも、関係ないと胸を張って言う勇気がシンドラー社長にはなかったから犯罪にはしったわけで、それを優作も「なぜ戦おうとしなかったんですっ!」って叱っていますが)。


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↑樫村氏を殺害するシンドラー社長。「コナンくんはゲームの中にこの事件を解決するヒントがあると考えたんでしょう」って優作はいうけれど、解決したのはゲームに参加してない優作だし、そもそもハニー・チャールストンジャック・ザ・リッパーが親子って、そのゲームだけの話っていう言い訳されたらどうするんやっていう話。


ここでまた「血」が示唆されます。ジャック・ザ・リッパーが母親という血の繋がった肉親を殺した悲劇を描くことで「血」の悲劇を印象付けます。それとリンクして、現実の世界で自分の血に怯え、人を殺したシンドラー社長を追い詰めた「血の悲劇」を描きます。

血のせいで殺人鬼になったジャック・ザ・リッパー
血のせいで殺人を犯したシンドラー社長、血の繋がった息子と父だったヒロキくんと樫村氏。

「血」が厄介で悪であることが強調されました。



この映画で作り手が伝えたかったことは

この映画で作り手は映画を見る私たちになにを伝えたかったんだろうなあと考えると、いろいろ解釈がありすぎて、なにが正しいとか正しくないとかなかなか言えません。

「作り手のメッセージ」を考えるときに、私が重要だと思うのは、そういうことを考えなくても、言ってみればツイッターやりながらなんとなくみても、映画をたまーにしかみないような人でも、観たらめっちゃおもろい!みたいな映画の質がきちんと整っていることです。それが前提で、その先に作り手側のメッセージが成立するんじゃないかと思ってます。

この基準で考えれば、ベイカー街の亡霊は、まず普通におもしろいところが素晴らしいじゃないですか。コナンがもともと好きな人でも、コナンをたまにしかみない人、あるいは劇場版しか見ていない人でも十分満足できるクオリティに仕上がっているだけですごいと思います。

例えば最近の作品でいうと業火の向日葵とか沈黙の15分とか、おもしろくないしつまらんし、いまなにをやっているのかよくわからんし…って感じ。コナン映画の最近の傾向であるアクションのインフレという傾向をできるだけ考えないようにして映画を評価してみると、やっぱりベイカーストリート面白いなあって思うわけです。


・・・・・・その上で、ですよ。。。


この映画のテーマは「血」です。一貫して血に関わることを描いています。

もっともシンプルに言うならば、「血」によってもたらされる悲劇や不幸、あるいは社会の歪みがあるけれど、同時に「血」によって困難を乗り越えたり、問題を解決することがきるということなのではないかと思います。

この映画で最初に描かれる「血」のメタファーは、誰しもがもっている家計や親の属性とそれによって決まる自分の社会的な地位の負の部分です。それはとくに血によって権威付けられていない少年探偵団と、血によって圧倒的に優位な立場におて、社会的に横柄に、偉そうに振る舞ったりする二世グループの対立で描きます。これは「血筋」によるネガティブな要素です。

次に樫村氏をシンドラー社長が殺害します。これは自分の息子であるヒロキくんを死に追いやったシンドラー社長と樫村氏の確執を示しているわけですよねえ。これも樫村氏とヒロキくんの「血縁」が理由です。

ゲームの具体的な内容で考えてみましょう。この作品におけるジャック・ザ・リッパーは、自分の母親であるハニー・チャールストンに捨てられ、それを恨みつつ、母親を殺害することに苦悩しています。これも「血縁」の悲劇といえると思います。

ゲームのクライマックス。
冒頭で少年探偵団と二世グループの信頼関係の差を描くために存在していたと思われていたコナンが上着を歩美ちゃんに貸してあげるシーンは、上着を貸すことではなくて、コナンが白いワイシャツ姿になることにこそ、本当の意味があるのです。

最後に情けをかけたノアズ・アークはコナンの前にホームズを呼び出し、血まみれになれと助言します。はいここでも出ましたキーワード「血」です。ワイシャツ姿になったコナンが、駅に突っ込む列車の中で、赤ワインまみれ(=まさに”血まみれ”)になることで、列車の衝突の衝撃を弱め、ゲームをクリアします。
ここで初めて「血」によってゲームを成功へと導くのです。


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↑実はここでも、上着を脱ぐ設定がなかった諸星少年のジャケットは最初から赤。実にこまかい配慮です。「もうだめだよ父さん…」とコナンがつぶやくシーンはコナンの長い歴史でも唯一の諦め。


ゲームをクリアしたあと、諸星少年の体を使ってゲームに参加したヒロキくん(=ノアズ・アーク)はこういいます

「君と(新一と)お父さん(優作)が羨ましかった、離れていてもこころが通じあっている二人が羨ましかった」

ここで、いままでの「血」による悲劇を、「親子」という究極の血の繋がりで一掃するのです。血は悲劇ももたらすけれど、それを解決するのまた、親子の絆という「血」の繋がりなんだ。

ノアズアークの二世三世の一掃の思惑は、図らずもゲームを通して子どもたちへ成長を与えてしまったことを通し、血の光と影をメッセージとして込めたんだと思います。

もしコナンたちがゲームに参加せず、だれもクリアしなかったら、ノアズアークは本当に50名を殺したでしょうか?

まあ、ほんとうはヒロキくんの人格をかぶった人工知能だったんだから、殺さなかったかもしれないけれど、ノアズアークは本来は超非情なクソ人工知能だったわけです。

しかもノアズアークがみた子どもたちの成長って、主に菊川少年や江守少年たちの姿。彼らががんばれたのはコナンがいたおかげなので、コナンたちがいなかったらやっぱり殺していたんではないかと思います。


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ここでコナンはいいます「助かったぜホームズ…」ホームズの声と顔が優作であることからも分かる通り、同時に「助かったぜ親父…」と、このゲームのシナリオを作った優作へ向けられたことばでもあったんですね


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↑白かったワイシャツがバッチリ”血まみれ”になっている。
 
なんて素晴らしいメッセージなんでしょう。誰しも自分がこう生まれればよかった、こういう風に育ちたかった、他の子供がうらやましいとか、そう思うことがあります。もちろん成長すれば、みんなそうは思わなくなっていき「ああ、まさにみんな違ってみんないいんだな」とか「血とか才能に言い訳しないぞ」って思えるかもしれません。

でもやっぱ人間って社会的な生き物だから、たまーにそう弱気になることがあるじゃないですか。そんなときこのベイカー街の亡霊を観ると、ああ「血」はもう仕方ないけど、じゃあ俺の「血」とか「才能」でどこまでやれるかトライしてみようじゃない!

そう思えるんです。


もちろん小学生のときにこんなことなんて1ミリも考えてません。でも中学生から高校生にかけて、再度この映画を見た時、ああなんて素晴らしい映画なんだろう、なんて普遍的で、とても大切なメッセージを投げかけているんだろうって、心から思ったのです。

この映画の絶妙なバランス

イカー街の亡霊は、とても絶妙なバランスで成り立っています。

まず、コナン映画が完全にビジネス化する前の作品である点。ここ最近の映画では

異次元の狙撃手…約41億円
業火の向日葵…約44億円
純黒のナイトメア…約63億円
唐から紅のラブレター…約68億円

というように、もうこのくらいの興行収入が大人の事情でいろいろな方面から要請されるようになってきてしまいました。だから、いまベイカー街のような変なバランスの映画をつくると、こんな興行収入はだせない。

コナンがまだ、ある意味自由に映画を作れていた時代の映画の中でもピカイチの傑作だったからこそ、こんな変なバランスの映画だったけれど、その後第13作の漆黒のチェイサーに抜かれるまで、シリーズ最高の34億円の興行収入をあげたのだと思います。

イカー街の亡霊は、まさにこの第6作でしかできない映画なのだと思います。



まあつっこみ所はあるけどね

まあこの映画、??ってなる箇所はいくつかありますけどね。

ジャック・ザ・リッパーの殺しとコナンの推理

史実でのジャック・ザ・リッパーの殺しは

1件目)1888年8月31日 メアリー・アン・ニコルズ
2件目)1888年9月8日 アーニー・チャップマン
3件目)1888年9月30日 エリザベス・ストライド
4件目)1888年9月30日 キャサリンエドウッズ
5件目)1888年11月9日 メアリー・ジェイン・ケリー

だそうです。

映画では、冒頭いきなりジャック・ザ・リッパーが出現します。
「またジャック・ザ・リッパーが出たってよ」って警察官がいうシーンがあるし、そのあとベイカー街のホームズのアパートを訊ねた時、夫人が「今日は9月30日よ」と言うことからも、日付は9月30日で確定。史実とも一致しているのが分かります。

話が進むにつれ、劇中の8日の殺しの被害者はハニー・チャールストンとわかります。一応名前は変えているんですね。

それにしても、自分を捨てた母を恨んだのは分かるんだけど、だからといって、警察に捕まらないようにするために最初に無関係の人を殺したっていうのはちょっと説得力にかける気がするのだよなあ。だって、ジャック・ザ・リッパーはもとは異常犯罪者ではなくて、単なる母親への恨みだったわけです。それなら最初に母親を殺すんではないでしょうか。
もっとも、モリアーティ教授を無理やりそのロジックに組み込んだ段階で、史実とは違う話になっているわけですが。

ちなみに本作では、あくまでジャック・ザ・リッパーの犯行であるとされている5つの事件(Canonical Five)だけを扱っているようです。中にはジャック・ザ・リッパーの仕業ではないかとされている他の事件を加えて検討している人もいますが、いちおうカノニカル・ファイブの5事件と本作のと整合性はとれているので、そこは問題ないかと思います。


ゲームの時間経過がよくわからん

ゲームが始まったのは9月30日、終わるのが10月1日の、たぶん30時間くらいの話ではないでしょうか。始まるときはもう真っ暗だから、最低でも18時にはなってるでしょ。

(9月30日)
18時…ゲーム開始。ジャック・ザ・リッパーと遭遇。
19時くらい…ベイカー街到着
20〜21時くらい…モラン大佐を探しにバーへ
22時くらい…モリアーティと会見。
と、ここまではいいんだけど、夜の描写はまったく飛びます。お前らはどこで寝たんだ。だいたい現実世界と時間の進み方同じなのかも不明。

(10月1日)
朝…コナンがホワイトチャペル地区で捜査(またわざわざ戻ったんかいっ)
夜…劇場での攻防。最終列車でジャック・ザ・リッパーと対決

という感じで、けっこう細かいところの描き込みが雑なんですねえ。体感シミュレーションゲームというのだから、言葉のご都合主義にしっかり対応したように、例えばゲーム中で寝ると現実の世界の10分の1になるとか、なんか断りがあったらよかったなあと思います。



早逝した野沢さん

この映画で脚本を担当したのは野沢尚さんという方です。

 野沢尚(ウィキペディア)

野沢さんは「破線のマリス」で江戸川乱歩賞を受賞しています。中山美穂とキムタクと仲村トオルが出てた「眠れる森」の脚本も担当してました。

そういえばこの眠れる森っていうドラマでの仲村トオルの役割はひどかったなあ〜。そのせいで去年の『22年目の告白 私が殺人犯です』、すごく面白い映画だったのに、仲村トオルがもう狙っているとしか思えないキャスティングをされているので、なんか半笑いで見てしまった。

それで、野沢さんはコナン映画の脚本をこの世に残し、2004年に自ら命をたったのです。悲しいです。
もっとも、作家さんの中にはこういう最後を迎える方もいますけど、それにしてもコナンの劇場版にこんな映画を残しただけに、残念です。



何度でも見返したい

子供のときには「すっげーえ面白い映画だったなあ!」と思うだけでしたが、見返すたびにあらたな発見がある映画です。

コナン映画には、大爆発する映画、やまほどあります。
被害者が多い映画…やまほどあります。
コナンと蘭ネーチャンのラブコメ…やまほどあります

でもコナン映画の中で、映画としてのクオリティ、コナンの世界観の反映、メッセージ性までこれほど完璧に仕上げてる作品がほかにありますか?

今回、久しぶりの地上波でまた新たな発見に出会えることでしょう。

ここ最近のコナン映画が好きな人でも、例えばロンドンの夜の町並み
ホームズのアパートの装飾などといった背景の描き込み
ホームズの世界観…

本当に一見の価値ある作品です。

世紀の大傑作に乾杯!!