先日発売されたはやみねかおる先生の新刊「令夢の世界はスリップする」に衝撃を受けた。ここ数年のはやみね作品のなかではもちろん、全ての読書体験のなかでも飛び抜けて強く心にどかーんとくる一作で、この感情をすぐに共有したい!という気持ちになった。
はやみね先生の作品は毎回新作がでるたびに買ってるけど、そんな気持ちにまでなることはない。はやみねかおるの集大成として宣伝されただけある。
※下記、本編の内容に触れます。ご注意ください
究極のファン向け作品
なにが衝撃だったか。ある意味「令夢の世界はスリップする」は、究極の「一見さんお断り」作品だ。無論、この作品単体でみても起承転結が成立しているから十分おもしろい。夢水清志郎の記憶力の無さを知らなくても、竜王創也の不器用さを知らなくても、ちゃんと面白い。
でも、これまではやみねかおる作品を読んでいればいるほどこの作品から伝わるエネルギーは強い。
児童書という領域を専門にしていながら、そこに留まらない幅広い層に支持されているはやみね先生だからこそ、この感覚は成立する。大人になっても子供のときの読書大変が濃く印象に残っている人がたくさんいる。
そんな読者は令夢に強く感情移入するのではないだろうか。私は、令夢がはやみね作品のキャラクターと遭遇していくのを、自分自身が彼らの作品を読み直すような体験に強く重ねた。とくに、既にシリーズが完結して10年以上過ぎている夢水清志郎シリーズだ。前回新刊で教授や亜衣ちゃんたちと接したのは2009年。令夢が彼らに出会っていく過程は、自分にとっては彼らとの再会以外の何者でもない。
「ああ、令夢ははやみね世界観をつなげるための存在なんだ…」と実感した。
令夢は、はやみね先生自身がこれまで自分が生み出したキャラクターを相対化するためのキャラクターにもなっていた。
これまで読者は、それぞれのシリーズを常に一人称で読んできた。夢水では亜衣ちゃんの目を借り、トムソでは内人の目を借りた。
でもこの作品では、彼らが相対化され、三人称で接することになった。亜衣ちゃんや内人も含めて、各作品についてじっくり振り返ることになった。
「令夢の世界はスリップする」を読み進めていくと、そんな気持ちがどんどん積み重なってくる。それが究極の「一見さんお断り」作品になっており、はやみねかおるという作家を何年も読んできた人への最終的な回答になっていた。
その意味で、この作品の位置づけと内容で試みられていることは、とても衝撃的だったのだ。
風呂敷を畳み始めたという実感
ただ、この作品は、読者を「あー楽しかった」などと、安心して帰してはくれない。どっぷり「赤い夢」に引き込む。読者が赤い夢から戻ってこられるかは分からない。はやみね先生はそんなことまで気にかけてはくれない。
谷屋令夢を主人公に、今まで広げてきた風呂敷を畳み始める時がやってきました。
「令夢の世界はスリップする 赤い夢へようこそ 前奏曲」あとがきより
はやみね作品のキャラクターを総出演させ、風呂敷をたたむのがこの作品の出発点になっている。はやみね先生自身も断言している。その宣言に違わず、この作品に出てこないキャラクターを見つけるほうが難しい。
ぼくが書く物語 ー ”赤い夢の世界”は、世界と時間軸を共有しています。
「令夢の世界はスリップする 赤い夢へようこそ 前奏曲」あとがきより
この新シリーズには「赤い夢へようこそ」と副題がついている。
いや、これこそが本題だろう。
「赤い夢」というのは、はやみねかおる先生の作家性そのものだ。では、何が赤い夢なのか、と問われると、明確に答えることができない。自分の記憶では、はやみね先生自身も明確に話したことはない。
正直、赤い夢が歓迎されるものなのか、避けたり排除したりするものなのかさえ私はわからない。
赤い夢は「都会のトムソーヤ」ではおおむねポジティブな意味で使われており、説明する際の親和性が高い。トムソーヤにおける赤い夢とは登場人物が作るゲームの世界そのものであるといえる。トムソーヤ本編では、一貫してそのゲームの世界が現実世界を侵食する話をしているようにも思われる。
将来、創也と内人はゲームの世界が限りなく現実に近づようなものを完成させてしまうので、それを阻止しようと考えているのがトムソーヤにおける「頭脳集団(プランナ)」だ。2人はまだゲームの世界(=赤い夢)が社会に悪影響を及ぼす可能性まで考えていない。だから本編ではゲームづくりは「いまのところ」ポジティブな意味で用いられている。
一方、夢水清志郎シリーズでは犯罪者の計画や歪んだ価値観、真実を隠すために用意した別のストーリーを総称して「赤い夢」とよんでいる気がする。
特にシリーズでも特筆して不気味なのが「機巧館のかぞえ唄」だろう。
この作品は、一つのフィクションのなかにさらにフィクションが織り込まれている。そのフィクションは教授と対峙した「犯人」が生み出したものだった。
シリーズでは「魔女のかくれ里」における編集者・伊藤さんの両親に関する真相でも、別のフィクションを成立させることで覆い隠している。夢水清志郎作品では赤い夢がなかなかポジティブに使われない。
こうした謎の存在「赤い夢」を、いよいよ作者も、読者も、登場人物も直視しなければならなくなったのが「令夢の世界はスリップする」だ。作者が風呂敷を畳む読者の代わりに、これまでのはやみね作品の登場人物と接触するのが、このシリーズの主人公・令夢だ。
世界観がつながる感動
はやみね作品のもう一つの特徴と言えるのが、複数の作品における時間軸や世界観の共有だ。例えば、夢水清志郎シリーズと怪盗クイーンはほとんど背中合わせの関係だ。互いの話は独立しているものの、教授とクイーンはたびたび顔を合わせている。
それ以外の作品でも同様のことがいえる。それぞれ少しずつ名前が違うが、同じ特殊能力を持つ人が出てくる。未来のことがわかる特殊能力を持つ人は「未来屋」「時見」と呼ばれている。
そして今作では、これまでのシリーズのキャラクターが顔を合わせ直接的な繋がりを持つ。「怪盗」「頭脳集団(プランナ)」といった、元の作品以外ではあまり縁がなかった要素もつながる。夢水清志郎シリーズの舞台である虹北学園や虹北商店街がトムソの世界観にも共有される。
今作は、はやみね先生がこれまで間接的に描いてきた世界観の共有を整理し、より直接的に繋げて、物語を語る舞台を整えたといえる。
「令夢の世界はスリップする」の基本的な舞台は、内人と創也が暮らしている街だ。今作では、彼らが住んでいる街と夢水清志郎が暮らす街・虹北商店街のある街が隣町であることが新たにわかる。
夢水清志郎シリーズとトムソーヤには大きな違いがある。夢水清志郎シリーズは約20年をかけて3年間の登場人物を成長させた。一方、トムソーヤは基本的にサザエさん方式。登場人物の成長はあっても、時間経過はない。
そんな中で判明したのは、この作品の世界観が夢水清志郎シリーズのかなり初期であること。亜衣ちゃんたちはまだ「そして五人がいなくなる」の舞台・オムラ・アミューズメントパークにも行っていない。
でもここが嬉しい。
30年近くの時間を経て、自分が生まれる前に始まったシリーズの登場人物に会えた。もう自分がこのシリーズを読み始めていたころは、岩崎姉妹もレーチもみんな中学3年生になっていた。中学1年生の彼らの物語を読むことはないだろうと思っていた。
そんな彼らにこんな形で再会できる喜びは言葉では言い表せない。
現代社会に過去が飲み込まれる
夢水清志郎がリアルタイムで活躍していた1990年代からゼロ年代にはラインもない、中学生が携帯電話を持つのは珍しかった。当時ですらほぼ絶滅していた黒電話とレーチとの激戦がなつかしいが、いまとなってはレーチが固定電話を使うことも過去のものだ。それどころかメールで「Re:Re:Re」が件名に重なる時代をも通りすぎて、「ラインすれば?」の時代になってしまった。
令夢「連絡は?」
内人「ライン交換したからー」
作中の令夢と内人の会話だ。シリーズでは三姉妹で一つの携帯を共用していた亜衣ちゃんたちが、ラインとは…。時代性の融合、もっというと、過去が現代社会に容赦なく飲み込まれてしまった。
今後、どんな作品になるのか
この作品は「YH!ENTERTAINMENT」でも「青い鳥文庫」でもない。描き下ろしの単行本としてスタートした。
はやみね先生は、人類は醒めない夢を見ると言っている。それは「赤い夢」なのだろうか。はやみね作品のキャラクターが赤い夢を見続けてはいけないのだろうか、赤い夢を見続けるとどうなるのか。このタイミングで風呂敷を畳み始める狙いは?現在本編も進行中のトムソはどうなるの ーー
と、疑問は尽きない。正直、突然はやみね先生が風呂敷を畳むと言い出した感じすらある。
作品本編も今後の展開が読めない。この作品においてはスリップした世界は赤い夢によって作られているようだ。令夢は自身が母のいないもとの世界に戻りたくないために校庭に落書きした。でもそれを教授と創也に見破られてしまい、最終的には自ら内人に打ち明けることで、翌朝、もとの世界に戻ってきた。
スリップした世界の内人との豊かな交流で、令夢は元の世界の内人にもスリップした世界の内人みたいになってほしいと願っている。だから令夢は小説を書いてみないかと内人にたずねているはずだ。
次にどんな話を持ってくるつもりなんだろう。
赤い夢に頼らず、今いる社会で自己実現する話にしたいのか、それとも赤い夢と現実との境界線をいっそう曖昧にして、登場人物も読者をも赤い夢に取り込むのか。
まったく予想できない。
はやみね先生が風呂敷を畳むと言っている以上、それを信じて新たなシリーズを見守りたいと考えている。