いつかはトムソーヤ

映画、本、写真

映画「都会のトム&ソーヤ」がひどかった件

自分が小中学生のときに最も読んだ作品である都会のトムソーヤが映画化された。

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どのくらい夢中になってたかというと、登下校中歩きながら延々と読んでいたくらい。特に1巻を読んだときのことはよく覚えており、昼休みたまたま図書室で本をとり読み始めると、手が止まらなくなった。

その後教室の掃除の時間になるのだが、机を動かしながら読んでしまう。ページをめくる手が止まらないのだ。

こういう体験はトムソの他の話でもあったし、夢水でもクイーンでも、大人になってから読んだ作品でもした。でも、あとにも先にもこの時以上に手が止まらなかったことはないと思う。

そんな作品が映画化されたのだから、本当に嬉しかった。かつて内藤内人や竜王創也、あるいは彼らの境遇そのものに自分を重ねた小中学生は本当に多かったと思う。そんな人物たちが実写で見られるなんて幸せすぎる。

でも、映画館で見た映画は自分が子供時代に夢中になったそれとは別物だった。

登場人物に自己投影できない

正直映画作品としてのクオリティの問題はどうでもいい。そもそも,芸術としての価値を期待して見に行く映画ではない。

現役の小中学生もかつての読者だった大人も共通してこの映画に求めるのは、現在あるいはかつての自分に映画のなかの登場人物の姿を重ねること。得るのはワクワク感や憧れ、ノスタルジーや勇気かもしれない。

でもこの映画の登場人物にはほとんど感情移入できない。

感情移入できないのがどうして問題かというと、この作品が中学生二人の自己実現の物語だからだ。

創也はもう将来の目標が見つかっている。究極のゲームづくりだ。一方、内人には目標がない。作品を追うごとに小説家という夢がぼんやり浮かんでくるけど、初期では創也がゲームクリエーターになるのを後押ししつつ、自分が得意なことや誰かの役に立てることを見つけていく。

この映画ではそうした側面が全く伝わらない。

劇中、創也は事あるごとにゲームをつくるという目標を口にするけど、どんなゲームを作りたいのか、なぜゲームなのかがまったく説明されない。こうした点は実は原作でもわかりやすく説明されているわけではないのだが、なぜか原作読者は創也のことを理解できる。創也の言動やそれぞれのエピソードが全体として理由の説明として機能しているからだ。

90分の映画でそういう伝え方は無理だから、ひたすら「ゲームをつくりたい」 と言うしかない。でも映画化するのだから、短い時間で創也がゲームづくりにこだわる理由を説明する工夫をしないといけないはずだ。

内人の描き方にも同じようなことが言える。どうして内人が竜王創也という人物に興味を持って、わざわざ苦労してまで会いにいくのか全くわからない。

原作で、砦を攻略して創也の部屋にたどり着いた内人と創也のやりとりがある

創也「ぼくと話をしたいのなら、学校でもできる。それを、狭い路地を苦労して抜けて、なおかつ罠まで突破して、きみはここまできた。どうして?」

(中略)

内人「おもしろかったから…かな?」

(都会のトム&ソーヤ①p59)

読者は罠を突破していく内人が自分になった気になっているため、内人の「おもしろかった」という答えにすごく共感する。

でも劇中では、砦の罠を突破するという行動はなぞっているけどワクワク感に乏しく、暗視装置の突破もないしタバスコ入り水風船もない。別に原作の仕掛けをやるべきと言っているわけでない。別の仕掛けでもいいから、 自身の能力を活かして一歩一歩慎重に進む内人を見たかった

そうしたイメージには程遠く、扉も迂闊に開けるし松明が消えてもそのまま進んでしまう始末。

だから、内人の得意なことである創意工夫する力や、砦に入ってから創也に雑に扱われ、ちょっと挑発されると乗ってしまいやすいところが全然伝わってこない。

創也の部屋に入ったときの内人の驚きは素直に表現されてたけど、それが素直に創也のゲームづくりに協力することにはまったく結びつかない。

人物像がぶれている

劇中、創也と内人の人物像はぶれぶれだ。

内人についてはたびたび「普通」だという描写があるけど、原作ではそれとセットで高いサバイバル能力が示されるから、読者は「全然普通じゃないじゃん!」となり、それで創也は内人を頼り、同じように読者も内人に期待する。

それが映画では、内人がまともにサバイバル能力を発揮するのは冒頭の砦攻略シーンだけ。中盤、倉庫に閉じ込められて火をつけられるシーンもそうだ、脱出する方法はだれにでも思いつくようなことでまったくサバイバル能力と関係がない。

終盤、ゲームクリアに必要なアイテムを渡せといきなり堀越美晴を襲った男に言われる。この脚本の破綻は後述するとして、男にアイテムを投げると見せかけるため、アイテムにビニールひもを巻きつけるというのにはさすがに頭を抱えた。釣り糸ならまだしもビニールひもは普通にばれるでしょ。

 創也と内人の関係性が間違っている

創也の人物描写で一番違うと思ったのが、単なる自分勝手なやつだと描写されていること。創也はたしかに自分勝手だ。とくにゲームや栗井栄太が関わると原作での決り文句は「猪突猛進の大バカ野郎」。

でも、実はそうではない。原作では自分中心で生徒たちの評判が悪かった先生や、パワハラ気質で生徒の夢をバカにするタイプの先生に反発し、クラスメートに協力している。

それがこの映画の終盤まではただただ記号的に処理される。図書館に閉じ込められたクラスメートたちをを創也は見捨てるし、彼らがゾンビ化して公園で水を求める際にも見捨てる。でも、だからと言って創也が他者への思いやりにかける人物とはならないのはだれにでもわかる。だってこれはゲームだから。ゲームにはクリアする条件があって、それを満たすために最善の行動を取ることと、登場人物の性格にはなんの関係もない。

そして、倉庫に閉じ込めら命を狙われたあともゲームプレイを続けようとする創也をみて内人は創也から離れていく。

でも、内人はこのような理由で離れていくだろうか。そもそも内人自身が原作ではそんなにセンチメンタルなキャラではない。映画単体でみても、同級生との友情を伺わせるような描写は特になく、堀越美晴とのやりとりしかない。

内人は田舎の祖母の家で山の歩き方や危険回避の方法など、伝統的なサバイバル能力を叩き込まれている。学校の勉強が得意な方ではないけど、頭の回転はいい。リアル脱出ゲームのなかで設定としてゾンビ化した同級生にいちいち感情移入して、ゲームクリアの目的を放棄するほど精神的に幼稚ではない。というか、今どきの小学生ですらこのくらいの現実とゲームの区別はつく。

創也と卓也さんの関係は崩壊

創也と竜王家の関係もめちゃめちゃだ。序盤、砦で創也は内人から「竜王グループの御曹司?」と問われる。いやいや中学生が日常会話で御曹司とかいう言葉は使わないよというツッコミはぐっとこらえるが、創也は自身の出自に触れてほしくない感じ。

たしかに原作における創也の性格もこんな感じだが、それ以降創也と竜王グループの関係はまったく深堀りされない。物語の終盤近く、ゲームプレイに突き進む創也と創也の身を案じる卓也さんが口論するが、そこでも「竜王の家と自分は関係ない」と創也は訴える。でも物語では竜王グループがどんなグループかも、創也と家族がどんな関係なのかもよくわからないから、ここで創也が竜王家からの脱却を求めてもよくわからない。

というか、創也は卓也さんに自分の行動について理解してもらおうとは思っていない。原作では卓也さんが保育士を目指していることにつけこんで架空の面接を用意し、卓也さんを遠ざけるほどの徹底ぶり。砦の前に偽の通報で警察をおびき出したり、工作に手抜きがない。創也は卓也さんの攻略で精神論を頼ったりしない。

卓也さんも卓也さんで、創也のゲームづくりを尊重はしているが、だからといって警護に手は抜かない。この映画の中で、終盤卓也さんは創也の見張りを自発的に解くが卓也さんの人物描写からは考えられない。

 脚本が成立していない

ここまでは都会のトムソーヤの世界観的な指摘をしてきたが、これ以上はあまりに原作目線での見方になり、さすがに原作とはパラレルの90分映画に対する評価としては酷なので、いちおう脚本、演出、演技、技術的なところを列挙していきたい。

正直、原作世界観が崩壊しているのは予想の範囲内だったが、映画作品としても著しくレベルの低い作品だった。

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脚本、担当の徳尾浩司氏と原作・はやみねかおる先生との対談。

この中で徳尾氏が「IN塀戸っていう作品があって、こんなに壮大な世界観があって、それをオリジナルの世界観にして映画にできないかスタッフ、監督と話した」というようなことを言っていて(37:00付近)ああなるほどなと思った。映画で引っかかったところは、IN塀戸を適当にサンプリングしただけという極めて不誠実な態度。

まず、あちこちで突っ込まれている作中に出てくる謎のピエロ。こいつが倉庫火をつけて(ここも木の枝か紙くずかなにかにライターに火を付けるところしか映らないから、コンクリート製のしっかりした倉庫にどうして煙が入り込むのかわからないという飲み込みづらい雑な演出なのだが)、ピエロが創也と内人、堀越美晴を襲うんだけど、これもそのままIN塀戸の一つの要素をなんの工夫もせずもってきただけ。

原作でのIN塀戸について簡単にいうと、この映画内のゲームと同様に栗井栄太が作ったRRPGで。このゲーム中、創也と内人が何者かに追いかけられて山中の木造の小屋に隠れるんだけど、閉じ込められて火をつけられるという話。ここでは火をつけられるのは木造のかなり古い小屋なので、火が付けばかなり危険な状態であることは想像に難くない。原作では、内人の機転で小屋が地面には固定されていないことを突き止めて、壁の下を掘ってなんとか脱出する。そして火をつけた犯人は栗井栄太側が認知していなかった人物で、自身のために参加者を襲っていた。ゲーム要素でいう「バグ」である。

これとおなじことを、映画でやりたかっただけだ。栗井栄太以外に主人公を脅かす存在作りたかった。「IN塀戸にこういう話があるじゃん」という短絡的な思考で採用。

そういう目的なので、ピエロの正体は劇中では回収されない。回収する必要がない。なんという実験的な映画だろう。

そもそも、この映画全体がIN塀戸の設定をもじっただけである。IN塀戸では宇宙人に見つかり寄生されてしまうという設定があったけど、それを「Z」というゾンビに置き換えただけ。

栗井栄太のゲームに参加するためのヒント。給水場は全国どころか一つの自治体にも複数あるだろう、どうして特定の箇所になるのかまったく説明がつかない。

原作では、栗井栄太の正体を暴くため、創也が長期間リサーチした結果として、下水道ネットワークの空間に隠れているのではないかという話だった。マンホールのある場所で突然人が消えたいう噂を確かめていき、かつゲーム制作のための電気や水道が確保できる場所が…という風に。ここも、原作にある要素だけ抽出した雑な脚本だ。

終盤、電波塔ではなく水門が真の正解だとする根拠は、「仲間を殺すことになる」とゲームと現実を完全に混同している内人の気分である。Zは水を欲しがっていたって、意味不明だ。それは創也たちが遭遇したZが水飲もうとしてただけで、ほかのZには別の設定があるかもしれない。それより、ゲームマスターの一人である麗亜さんから得たヒントの絵から導かれ、実際に目の前に怪しい装置がある電波塔が正解だという創也の考えのほうが数倍信憑性が高い。

その他、細かいところでも原作の要素を感覚でとってきたとしか思えないところが多々ある。栗井栄太に二人が初めて会うシーン。初めに派手なドレスを着た玉井詩織が演じる女性と会い、市原隼人演じる神宮寺らの元に案内されるんだけど、部屋に通された直後に今度はまた玉井詩織が演じるジュリアスが登場するから、初めてみる人はなんのことだかさっぱりわからない。

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原作では、ジュリアスにはジュリエットという弟がいたのだが亡くなってしまっており、そのショックで時々二重人格になるという設定。この説明がないから、このシーンを入れる意味がまったくない。というか、入れたところで、劇中ではジュリアスに関する説明やキャラの背景説明は一切ないため意味が無い。

同様に真田女史も出てくる。原作で真田女史は未来を見通す能力を持っており、創也たちにたびたび意味不明なものを持たせる。それが後のピンチに役に立つというおきまりの描写なんだけど、これジュリアスの描写と同じで、劇中では真田女史の能力に関する説明は一切されず、人物的な深掘りもないため、このシーンの存在自体に意味が無い。

今どき通用しない演出

序盤、2年ぶりに学校に戻ってきた転校生という設定に改変された内人が初めてクラスに登校するシーンがある。内人は懐かしの校舎をみて突然立ち止まって、なにかを見つめて思いにふける。それ見た担任の先生が「どうかした?」と尋ねて「いえ…」と内人は答えるのだが、こういう、演劇部みたいな演出を一般の商業映画でやるのは本当に止めてほしい。まず中学生男子はこんな繊細な心情にはならないし、人間は考え事をしているからといっていちいち立ち止まらない。

電話をしているフリをするのもやめてほしい。序盤、創也が堀越美晴に電話をかけて、二人で栗井栄太のゲームに参加しようと創也が言うシーン。スマホの画面が通話画面になっていないのがバレバレで興ざめだ。あまりに露骨なので、このあとのシーンで電話してなかったことを回収するかと思ったら、しない。こういう電話しているフリシーンは、紙コップになにも入っていないのに飲むフリするシーン並みに嫌いなので、本当にやめてほしい。

そして、やっぱり来てしまった。最終盤のルーキーズ症候群。

先に述べた堀越美晴が刃物を持った別のゲーム参加者に捕まったシーンのあと、ゲームのタイムリミットまであと15分だから急げと、電波塔から水門まで走る。水門にたどり着くと、うようよいるゾンビを倒しながら最上部まで行く

階段を上る途中で創也がこける。ここまではいいとしよう。

でもさっきまで「栗井栄太を超えるためにはゲームをクリアしないといけない!」とこだわっていた創也が、あっさり「君一人で行ってくれ」とか内人に言う。こういう演出はもはや無意識に入れるものだと思ってやっているとしか思えない。このシーンが本気で必要だと思っているなら、映画に携わる人としての力量が足りないんだと思う。

最上部にたどり着いたあと、給水装置の大きなハンドルを回して止まった給水を再開するんだけど、これが固くてなかなか回らないという無神経な設定。いやいいやRRPGなのだから、この場所にたどりついた時点でクリアでしょう。どうしてここで創也と内人がハンドルを回すシーンを引っ張る必要があるのかまったくわからない。

こういうバディものでは最後のクリアする瞬間に時間をかけないといけないからと思考停止に陥っているとしか思えない。

役者のバランスが悪すぎる

オーディションで選ばれた創也役の酒井大地くん。演技力に関してはしょうがないというか、むしろ演技経験が浅いなかでベストは尽くしたと思う。でもセリフをうまく言えていないところがあまりにも多い。下の本編映像でもうまく言えていないところが数カ所ある。

下の映画紹介動画でもセリフが突っかかった感じがある。これが気にならない映画制作者はいるのだろうか?

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これは本人ではなく監督とか演出の責任。全部言えていないわけではないのだから、言えてなければ取り直せばいい。採用しているシーンのいくつかには、とても映画のレベルに達していないシーンも多々あった。

内人役の城桧吏くん。万引き家族のときには、ほんとに是枝作品の子役はすごいなと関心した。さすがに他の子役と比べると一人レベルが違った。堀越美晴役の豊嶋花さんもよかった。

栗井栄太の中では、とくに本田翼や市原隼人はまともな役者なので画面に出てくると演技力という面では安心できた。

問題は、こうした役者の演技のバランスが悪すぎること。とくに演技に関してはかなり出番が多い創也がもっとも力量的に劣り、逆にプロとしてきちんと演技ができる市原隼人や本田翼は本当に少ししかでないため、映画全体がなかなか自然に見えないのである。

基本的な技量も足りない

 1万歩譲って、これまで述べてきたような点がメインターゲット層が小学校高学年ー中学生であることからくるものであり、かつ演出などが作家性からくるものであるとしよう。

それでも、映画の基本中の基本すらおろそかにしている点が多々あると思う。

まず冒頭。内人が初めて学校に訪れ、堀越美晴とベンチに座りながら会話。会話の中でクラスメートで映画部のメンバーでもある他の登場人物を紹介していく形。この方法はいいのだが、いちいちそれぞれの登場人物を一時停止させて、陳腐な名前のテロップを入れて、しかも一時停止させてる画面がぶれすぎで汚い。

中盤、ゲームの中で内人、創也、堀越美晴の3人は本田翼がいる場所にたどり着くが、ここの照明の当て方が絶望的に下手。ミステリアスな雰囲気を出したくて青めの光を当ててるんだけど、本田翼の顔に影ができすぎて、肌も非常に汚くみえてしまった。照明の経験が明らかに不足しているからだろう。

終盤、前述したとおりゴールである水門に向かう。水門に入って最上部を目指すときにまたゾンビたちが出てくるのだが、水門内の通路を逃げる内人たちのシーンで、廊下の突き当たりにその次のシーンで出てくるために待機しているゾンビが見切れている。ゾンビたちはご丁寧に次のシーンで二人が近づいてきたあとを襲うようにしかみえない。見切れているはだれにでもわかるのだが、こういうシーンですら使ってしまうのは絶望的だと思う。

実写化に怒る人の気持ちがわかった

ここまで書いたのはこの映画がだめなところのほんの一部だ。

人気漫画の映画化には批判がつきもので、これまでもいろんな作品で激烈な批判が上がったのは知っていたけど、今回真の意味で実感できた。原作から都合のいい設定やエピソードだけを抽出し、商業映画の予算や尺に合わせ際限なく改変、利用し捨てる。かつ、そうした作業のクオリティがとてもお金をとっている作品のレベルではないパターン。

河合勇人監督は本広克行監督、堤幸彦監督らのもとで助監督として経験を積んでいたそうだ。

お察しである。

徳尾浩司氏はよくわからない。

このお二方が関わる映画は二度と見たくない。

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